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圜悟山 正永寺のホームページを開設いたしました。
まだ編集中のところもありますが、徐々に充実させていきたいと思います。

坂西家

小笠原貞宗

初代―宗満(貞宗の三男)

正中5年4月8日松尾に生れ 建武2年郊戸の庄へ分家なし 貞和年中松原宿に城を築き 永和2年在京中卒す 53歳 法名賢戒

二代―由政(宗満の長男)

康和2年5月生る 母武田佐馬介直信女 稚名孫六郎 兵庫守度々武功あり 応永15年入道して正永と号し 正長元年3月26日卒す 86歳 法名正永寺殿堅峰道因大居士

三代―長由(由政の長男)

応安3年松原城に生まる 母家の女房 稚名彦太郎 応永2年5月卒す 法名長圓 27歳
長国(由政の次男)康歴2年8月2日生まる 応永7年小笠原長秀に随ひ更科郡所々にて合戦して武功顕し 10月17日大塔城に籠り家臣宮崎と共に生害す 21歳 法名曹源

四代―政忠(長由の長男)

明徳4年5月生まる 稚名小太郎 寛正5年6月15日卒す 72歳法名圓岳

上總介(長国の次男)
文明2年善光寺大黒塚合戦に討死す

五代―政重(長忠の長男)

応永30年7月11日に生まる 稚名孫六 永正12年結城合戦の時小笠原正康に属し武功あり 文明14年10月卒す60歳 法名道圓

六代―政之(政重の長男)

寛正3年2月生まる 天文年中愛宕の寺の山城方へ移す 弘治2年卒す 95歳  法名長松寺

七代―長重(政之の長男)

大永元年飯田城に生まる 母小笠原左馬介女なり 舎兄多と雖も皆早世す 父老年に及び家督方継ぎ神峰城主知久頼元の聟となり 永禄3年卒す 40歳 法名長光

八代―長忠(長重の長男)

天文7年5月28日飯田城に生まる 永禄5年6月12日市瀬山にて生害す     25歳

九代―延千代(長忠の長男)

父長忠討死の時卒す 2歳

坂西家断絶….

歴代住職

開山 能霊自果大和尚

本寺―新潟の顕聖寺6世
天正1年3月16日遷化 81歳

2世 黙翁是廓大和尚

顕聖寺7世
天正18年5月30日遷化

3世 同翁深鶴大和尚

顕聖寺8世
文禄4年7月31日遷化

4世 甄室門察大和尚

顕聖寺9世
慶長5年8月14日 遷化

5世 別傅在策大和尚

大中寺12世
太念寺開山
元和4年10月5日 遷化

6世 無鷲春龍大和尚

寛永3年2月26日 遷化

7世 鐵州永策大和尚

万治3年9月18日 遷化

8世 天瑞正恩大和尚

寛文12年3月14日 遷化

9世 乾室存貞大和尚

永光寺46世 延宝4年9月4日 遷化

10世 香山祖檀大和尚

正徳1年1月27日 遷化

11世 仙巌通門大和尚

享保10年9月1日 遷化

12世 一渓越翁大和尚

享保16年5月13日 遷化

13世 僧穏宏龍大和尚

享保14年1月7日 遷化

14世 南皋起禅大和尚

明和1年8月14日 遷化

15世 金山鞭外大和尚

雲彩寺法地開山
寛政11年11月30日 遷化

16世 大寂道悟大和尚

雲彩寺二世中興
文化8年12月21日 遷化

17世 祖海天苗大和尚

天保11年8月2日 遷化

18世 道開宣鴨大和尚

明治2年3月10日 遷化

19世 直提綱全大和尚

黄梅院法地開山
真浄寺19世
関昌寺15世
法運寺19世
長松院2世
明治3年10月17日 遷化

20世 東海友隣大和尚

明治13年3月28日 遷化

21世 天隋健寳大和尚

明治12年5月20日 遷化

22世 古外祖傅大和尚

大正2年5月2日 遷化

23世 慈法順応大和尚

淵静寺13世
明治43年11月25日 遷化

24世 法憧開闢 千丈悦恩大和尚

関昌寺24世
東光寺23世
吉祥寺20世
峰山寺25世
昭和23年10月19日 遷化

25世 大安倫正大和尚

昭和46年9月22日 遷化

御君地蔵尊

御君地蔵尊由来

坂西刑部少輔源宋満八代の孫坂西伊豫守長忠 永禄五年戌六月 松尾城主小笠原下総守信貴領分北方村山村にて横領の事あり依之信貴は甲州武田大膳太夫信玄に訴え同六月はじめより飯田の城を攻める
長忠力戦したるも衆寡敵しがたく同月十一日夜中に家臣近藤茂介に一書を持たせ木曽へ使わしたるところ途中において小笠原の臣清水但馬に生捕りとなり事露見す 信貴は家臣木下・日枝・田中・伴野・清水・上野・代田其他百余人をして市の瀬辺に先回りして待つ 長忠かくとも知らず翌く十二日の夜半竹村・窪田・高田・川口・蜂谷其他二十数人と妻子を伴なひ風雨に紛れて城を脱出木曽路をさして落ち行かんとせしところ前伏兵起ちて追手の兵との極撃に会ひ遂に全滅す 今此所を勝負平といふ

時に長忠二十五歳長忠に一子有延千代といい二才なり 長忠将に自害せんとするに当たりて家臣竹村・窪田に一子延千代を託し後事を謀らしめんとす 即ち両人は延千代を抱き間道から駆けぬけ木曽路へ落ち行かんとせしも案内を知らずそこかしことさ迷ふうちに憐れや嬰児は遂に餓死す
両人涙ながらに小黒川の沢辺に屍を埋め小黒川を下りて現今の山本村竹佐に所縁を求めて土着した。勝負平の裏山一帯を迷い沢といいまた其所の谷をお子(おぼこ)谷といふ地名となりて当時を偲ぶよすがとなって居る

余思ふに敗戦者の惨めさは時代の古今を問はず洋の東西を論ぜず真に悲惨なるものであるといふことなり
世が世なりせば一城の主と仰がれるべき身が両親郎党悉く討死東西すら弁ぜぬ頑是なき其身は山中に餓死し賽の河原の石一つ積んでくれる者もなく折れ線香の一本も立って合掌する人もなしとはまことに不憫なるかなと即隠の情禁ずる不死 即ち地蔵尊を建立し里人が御君が墓と称ふるをとりて御君地蔵尊とは名づくなり

維時 昭和三十一年丙申七月十五日 開眼供養の日
玲丘山人