御君地蔵尊由来

坂西刑部少輔源宋満八代の孫坂西伊豫守長忠 永禄五年戌六月 松尾城主小笠原下総守信貴領分北方村山村にて横領の事あり依之信貴は甲州武田大膳太夫信玄に訴え同六月はじめより飯田の城を攻める
長忠力戦したるも衆寡敵しがたく同月十一日夜中に家臣近藤茂介に一書を持たせ木曽へ使わしたるところ途中において小笠原の臣清水但馬に生捕りとなり事露見す 信貴は家臣木下・日枝・田中・伴野・清水・上野・代田其他百余人をして市の瀬辺に先回りして待つ 長忠かくとも知らず翌く十二日の夜半竹村・窪田・高田・川口・蜂谷其他二十数人と妻子を伴なひ風雨に紛れて城を脱出木曽路をさして落ち行かんとせしところ前伏兵起ちて追手の兵との極撃に会ひ遂に全滅す 今此所を勝負平といふ

時に長忠二十五歳長忠に一子有延千代といい二才なり 長忠将に自害せんとするに当たりて家臣竹村・窪田に一子延千代を託し後事を謀らしめんとす 即ち両人は延千代を抱き間道から駆けぬけ木曽路へ落ち行かんとせしも案内を知らずそこかしことさ迷ふうちに憐れや嬰児は遂に餓死す
両人涙ながらに小黒川の沢辺に屍を埋め小黒川を下りて現今の山本村竹佐に所縁を求めて土着した。勝負平の裏山一帯を迷い沢といいまた其所の谷をお子(おぼこ)谷といふ地名となりて当時を偲ぶよすがとなって居る

余思ふに敗戦者の惨めさは時代の古今を問はず洋の東西を論ぜず真に悲惨なるものであるといふことなり
世が世なりせば一城の主と仰がれるべき身が両親郎党悉く討死東西すら弁ぜぬ頑是なき其身は山中に餓死し賽の河原の石一つ積んでくれる者もなく折れ線香の一本も立って合掌する人もなしとはまことに不憫なるかなと即隠の情禁ずる不死 即ち地蔵尊を建立し里人が御君が墓と称ふるをとりて御君地蔵尊とは名づくなり

維時 昭和三十一年丙申七月十五日 開眼供養の日
玲丘山人


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